1994年 サンマリノGP


1994年4月29日-5月1日
イタリア アウトドローモ・エンツォ・エ・ディノ・フェラーリ(イモラ)

予選:PP(65回目) 決勝:リタイア


開幕戦・第2戦と不本意な結果に終わったセナ。 92~93年のウイリアムズの強さを考えれば、セナを得た94年はさらに独走するのではとも思われた。 しかし実際にはウイリアムズの新車の開発は遅れ、さらにシャシーに問題がありとても過敏なマシンで苦戦を強いられた。 またセナ自身も、このマシンの改良作業に多くの時間を費やし、疲れ気味だったようだ。

セナはブラジルに寄り家族と時間を過ごしリラックスしてからサンマリノに乗り込んできた。 またサーキットのレイアウトも高速コースということで、 過去2戦に比べてウイリアムズの長所であるルノーエンジンのパワーを生かすことができる。 さらに新しい空力パーツも投入されるなど、シャシーにも必死の改良を施してきた。 セナは『サンマリノが自らの開幕戦』と誓い、気持ちを切り替えてレースに臨んでいった。

しかしそんなセナの気合をかき消してしまうような大事故が続発する。 金曜予選、同郷のバリチェロ(ジョーダン)がバリアンテ・マールボロ コーナーで縁石に乗り上げ、そのまま宙を浮いたままタイヤバリアに激突した。 バリチェロは一時意識不明になるほど大きなクラッシュだったが、幸いにも鼻を骨折しただけで済んだ。

セナはバリチェロを見舞いに行き、報道陣にバリチェロの無事を報告していた。 この事故だけをみれば、大きな事故だが決して特別なものではなく、 多くの人がレーシングアクシデントの一つだと認識していたと思う。 しかしこれがこれから起こる悲劇への序章だった。

一夜明けてバリチェロの事故から約24時間後、サーキットではいつものように土曜予選が行われていた。 しかし再びサーキットに衝撃が走った。 13時18分、ローランド・ラッツェンバーガー(シムテック)が高速のビルヌーブ コーナーを直進し激しくクラッシュ。 頑丈なモノコックが裂けるほどマシンは大破した。

走行中にリアウイングが外れてコントロール不能になったことが原因だったようだ。 ラッツェンバーガーはコックピット内で全く動かず、 すぐに救助され心臓マッサージをされながらヘリコプターで病院に運ばれたが、約1時間後の14時15分に死亡が確認された。

レース開催期間中のドライバーの死亡事故は、82年のリカルド・パレッティ以来12年ぶりだった。 サーキットにいるすべての人が、ラッツェンバーガーの死を悼み、うなだれた。 その中でも特にセナのショックは大きかった。 すぐに事故現場へ駆けつけ、コースマーシャルやグランプリドクターのシド・ワトキンス等から状況を確認。 現場から戻ってきたセナは何もいわずティレルのピットから近道してウイリアムズのモーターホームへと消えていった。

その後予選は再開されたが、ほとんどのチーム・ドライバーは棄権。 セナもレーシングスーツを脱ぎ、コントロールタワーへと入っていった。 予選は金曜日のタイムがそのまま最速タイムとなり、セナの65回目のPPが決まった。

土曜日の夕方、チームは決勝レースの作戦会議を行っていた。 セナは必死に自らの意志や考えをエンジニアに伝えようとするが、 今にも泣き出しそうな弱々しい表情だった。 また恋人のアドリアーナにも電話で「もう走りたくない」と伝えたそうだ。 しかし夜になって再び電話をした時には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と語ったという。 セナは動揺しながらも、必死に自らをコントロールし戦おうとしていた。



1994年5月1日…運命の日は明けた…。



朝のウォームアップ走行の時、セナはコックピットからフランステレビ局 TF1の中継でコース紹介をすることになっていた。 TF1にプロストが出演していることを知っていたセナは「親愛なるアラン、元気かい? 君がいなくて寂しいよ」 とメッセージを送った。 93年まではプロストを倒すためにレースをしていたといっても過言ではなかったセナ。 その言葉は本心であり、心からの信頼で結ばれていたように感じた。 しかしこの言葉がプロストへの最後のメッセージになってしまった。

決勝レース前、昨日亡くなったラッツェンバーガーに黙祷が捧げられた。 またドライバーの安全を守るためセナを中心として、 事実上機能していなかったGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション、F1ドライバー組合) を復活させようとしていた。94年のドライバーでチャンピオン経験者はセナだけで、 キャリアもすでにベテランの域に達していた。セナは自らの栄光のためだけでなく、 F1全体の発展のために尽力しようとしていた。

そして決勝レースの時間が近づいていった。 グリッドに着いたセナの表情はモチベーションに満ち溢れたいつもの表情ではなかった。 開幕からの苦戦、追われる者の辛さ、ドライバーの死、自らがF1を引っ張らなければならないという責任… 様々な苦悩と疲れが表れたのかもしれない。 ウイリアムズのテクニカルディレクターであるパトリック・ヘッドと話しながら弱々しく微笑み、スタートの時を待った。

14時にフォーメーションラップが始まり、その後レースがスタートした。 セナは好スタートを切り、シューマッハー以下を抑えた。 しかしここでも事故が発生。スタートできなかったレート(ベネトン)の後ろからラミー(ロータス)が追突。 マシンは共に大破し、その際にホイールやシャシーの破片が飛び散り、観客が重軽傷を負った。 レースは赤旗中断・スタートやり直しではなく、コース上がクリアになるまでセーフティーカーが先導して スローペースで周回を重ねた。

5周を終えた時点でセーフティーカーはピットに戻り、レースが再開された。 ストレートでセナがシューマッハー(ベネトン)を引き離しにかかるが、シューマッハーも離されまいと喰らいついていく。 2人は3位以下を後方に追いやって、1秒前後の間隔で再びホームストレートに戻ってきた。

そして7周目に入った。セナはホームストレートからシューマッハーを引き離し、 加速しながら左に曲がっていくタンブレロコーナーへと進入していった。 午後2時17分。中継の画面はシューマッハーの車載カメラの映像を映していた。 その時シューマッハーの車載カメラから、前方行くセナが右にそれてコースから消えていった。

中継画面が切り替わると、セナがタンブレロコーナーを直進しコンクリートウォールに激突していた。 クラッシュ直前の速度は210~220km/hとされている。 セナのマシンは右半分が大破し破片を撒き散らしながらコース脇に停止。 左半分はほとんど原型のままでコックピットも無事であり、セナの頭部がかすかに動いた。 軽い気絶くらいで済んでほしい…だれもがそう願った。

しかしそれ以後、セナの身体は動くことがなかった。 赤旗が出され、レースが中断。 セナはレスキュー隊によってコックピットから出され、その場で気管切開手術等の応急処置を受けて、 そのままヘリコプターでボローニャ市内のマジョーレ病院へ運ばれた。

セナは一時、心肺停止の状態にあったが、病院に着く頃には弱いながら脈を取り戻していた。 しかし容態は決して安心できるものではなく、依然として昏睡状態にあった。 そして午後6時3分に脳機能の停止、午後6時40分には心臓の停止が確認された。 午後7時45分にフィランドリ女医からセナの死亡が正式に発表された。

致命傷になったのは、クラッシュしたときに破損したサスペンションがセナの頭部を直撃したものとされている。 事故原因はステアリングシャフト破損による操縦不能説が有力である。 セナは大径のステアリングホイールを好んでいたが、それを使うにはウイリアムズのコックピットが狭くドライブングしにくいため、 セナは改善を求めていた。その結果、ステアリングシャフトを切断し長さを調節し溶接するなどの応急処置を施していた。

それ以外にもセナのマシン底部から激しく火花が散っていたことなどから、 タンブレロコーナーのバンプと、セーフティーカー導入でタイヤの空気圧低下によるマシン底部の低下等が 要因として考えられているが、特定には至っていない。

ただ一つ確かなことは、セナは最後の一瞬まで戦おうとしていたことである。 事故の半年後にたった一度だけ公開されたセナの車載カメラの映像では、 左に曲がるタンブレロコーナーで右にそれていくマシンに対して、 セナはヘルメットを左に傾け、レコードラインを見つめていた。 セナにしか見えない、誰よりもタイトで美しいラインを見つめていた。 最後の一瞬まで、自らの理想と目標に向かって…。

さらに事故後セナのコックピットからオーストリア国旗が見つかった。 オーストリアといえば前日に亡くなったラッツェンバーガーの出身国である。 セナはラッツェンバーガーに勝利を捧げるべく、気持ちを奮い立たせてレースに臨んでいたのだ。

セナの事故後にレースは再開された。 再開されたレースでも、アルボレート(ミナルディ)のタイヤがピットアウトする時に外れ、 他チームのピットクルーにケガを負わせるという事故も発生。 セナの親友でラッツェンバーガーの先輩でもあるベルガー(フェラーリ)はレース途中で棄権し、 優勝したシューマッハーも表彰台で笑顔がなかった。 こうしてモータースポーツ史上最悪の週末は終わった。 なおセナは7周目に事故に遭いそのまま赤旗が出されたので、 記録上はその2周前の5周終了時点でリタイアということになる。

サンマリノGPの模様ならびにセナの死は、 フジテレビで今宮 純氏、川井 一仁氏、三宅 正治アナウンサーによって日本に伝えられた。 今宮氏は力を振り絞って「セナはいませんが…、F1は続いていくわけです…」と語った。 3人が涙ながらにセナの死を伝えたこの模様は「涙の実況中継」と名付けられた。 感情むき出しのレポートゆえに、後に一部の関係者からは批判を受けることになるが、 私は現地の模様や感情をそのまま伝えたこの中継は素晴らしかったと思う。 ちなみにこの日の中継が、深夜帯のF1中継で過去最高視聴率だった。



F1の世界に限らず、スポーツ・人間社会、さらには地球の自然界に至るまで、 世代交代は避けられない法則であり、いつかは後進に道を譲ることになる。 しかしセナはトップを走ったまま天に旅立った。 今までこんな劇的にキャリアを終えたアスリートがいただろうか?

あくまで私の主観であるが、闘志あふれたセナのあの瞳を見ていると、 セナが若手に追い越され衰えていく様をどうしても想像できない。 「盛者必衰」のこの世の中で、神様もセナの存在をどうすることもできなかったので、 このような結末を用意したのではとも思えるくらいだ。

最後までトップを譲らず、セナらしいと終わり方と言えばそうなのかもしれない。 しかしセナにはもっともっと素晴らしいレースを見せてほしかったし、セナもそれを望んでいたはずだと思う。 セナは今、ブラジル・モルンビーの丘で静かにF1を見守る。 セナは何を考え、何を見つめているのだろうか?



アイルトン・セナ、享年34歳。
短い一生だったが、濃密で眩い光を放ち続けた34年間だった。
そして誰よりも速く、強く、美しかった。

涙が出るほどの感動と、色褪せぬ記憶を残し、セナは伝説となる。
誰もとどくことができない、永遠のワールドチャンピオンとして。

ありがとう、アイルトン・セナ。

あなたの勇気、
あなたの闘志、
あなたの優しさ…
あなたが教えてくれた全てのことに、
ありがとう



予選結果

 
ドライバー
チーム
タイム・備考
PP
 アイルトン・セナ  ウイリアムズ・ルノー  1'21"548
2位
 ミハエル・シューマッハー  ベネトン・フォード  1'21"885
3位
 ゲルハルト・ベルガー  フェラーリ  1'22"113
4位
 デイモン・ヒル  ウイリアムズ・ルノー  1'22"168
5位
 J・J・レート  ベネトン・フォード  1'22"717
6位
 ニコラ・ラリーニ  マクラーレン・プジョー  1'22"841


決勝結果

 
ドライバー
チーム
タイム・備考
優勝
 ミハエル・シューマッハー  ベネトン・フォード  1゚28'28"642
2位
 ニコラ・ラリーニ  フェラーリ  1゚29'23"584
3位
 ミカ・ハッキネン  マクラーレン・プジョー  1゚29'39"321
4位
 カール・ベンドリンガー  ザウバー・メルセデス  1゚29'42"300
5位
 片山 右京  ティレル・ヤマハ  1Lap
6位
 デイモン・ヒル  ウイリアムズ・ルノー  1Lap
リタイア
 アイルトン・セナ  ウイリアムズ・ルノー  5周、アクシデント、事故死
 
     
FL
 デイモン・ヒル  ウイリアムズ・ルノー  1'24"335



 


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