1985年4月5-7日
ブラジル アウトドローモ・インターナショナル・ド・リオ・デ・ジャネイロ(ジャカレパガ)
セナは名門ロータスへ移籍した。当時のロータスは、1982年のコーリン・チャップリンの死後、
少しずつ下降線をたどっていて最強とまではいかないが、
それでもまだ常に上位争いできるだけの戦闘力を有していた。
この年のマシン、ロータス97T はハンドリングに優れ、
セナはマクラーレン移籍後もマシンが操縦しやすく速い時には
「Just like 97」(まさに97みたいだ)と表現していたという。 チームメイトは、すでに優勝やPPの経験もありF1での地位を確立していたエリオ・デ・アンジェリス。 チームは彼をナンバーワン・ドライバーとして優遇し、主要な優秀メカニックの多くが彼についた。 セナはそんな状況の中で、自らの才能を誇示していく。 金曜予選は2位、土曜は3位だったが、2日間の予選全体ではデ・アンジェリスに続き4位。 セナのロータス時代は、予選でチームメイトに敗れる形で始まった。 多少のハンディがあったとしても、今考えると信じられない気もするが、 それだけデ・アンジェリスも才能溢れるレーサーであった。 歴代チームメイトの中でも、純粋な速さでは最もセナに近かったかもしれない。 決勝レースでは、スタートでデ・アンジェリスをかわしたが、 6番手スタートのプロスト(マクラーレン)に先行され順位は変わらずしばし4位を走行。 11周目にロズベルグ(ウイリアムズ)がターボトラブルで脱落すると3位にポジションアップした。 デ・アンジェリスを引き連れて3位を走行していたセナだったが、 後方からは前年のチャンピオン、ラウダ(マクラーレン)が迫ってきていた。 ラウダは11周目にデ・アンジェリスをかわすと、 その4周後にはセナもオーバーテイク。セナは4位に後退。 しかしそんなラウダも28周目にエンジントラブルでリタイアし、 セナは労せずして再び3位に順位を上げた。 その後もセナは燃費とタイヤを気遣いながらの優勝争いには加わらず地道に3位を走行した。 開幕戦ということ、そしてライバルとの差が大きかったこともあり、 確実に完走・入賞を狙っていたのかもしれない。 ところが49周目にはセナにも電気系統のトラブルが発生してしまいリタイアを余儀なくされた。 この後もデ・アンジェリスに比べてセナの方に、 避けられないようなメカニカルトラブルが多く発生することになる。 これも主要なメカニックの多くがデ・アンジェリスについたことにより、 セナのマシンの管理体制が低下したためだと思われる。 2002年のフェラーリが、M・シューマッハーが全レース完走した一方で、 バリチェロの方にはスタートさえできないような信じられないトラブルが多発したのと同じかもしれない。 しかしセナはそんな状況の中でもナンバーワンドライバーであるデ・アンジェリスを上回る走りを見せ、 シーズンが進むにつれてチームの主導権をも握っていくのだった。 |
ドライバー |
チーム |
タイム・備考 |
|
PP |
ミケーレ・アルボレート | フェラーリ | 1'27"768 |
2位 |
ケケ・ロズベルグ | ウイリアムズ・ホンダ | 1'27"864 |
3位 |
エリオ・デ・アンジェリス | ロータス・ルノー | 1'28"081 |
4位 |
アイルトン・セナ | ロータス・ルノー | 1'28"389 |
5位 |
ナイジェル・マンセル | ウイリアムズ・ホンダ | 1'28"848 |
6位 |
アラン・プロスト | マクラーレン・TAGポルシェ | 1'29"117 |
ドライバー |
チーム |
タイム・備考 |
|
優勝 |
アラン・プロスト | マクラーレン・TAGポルシェ | 1゚41'26"115 |
2位 |
ミケーレ・アルボレート | フェラーリ | 1゚41'29"374 |
3位 |
エリオ・デ・アンジェリス | ロータス・ルノー | 1Lap |
4位 |
ルネ・アルヌー | フェラーリ | 2Laps |
5位 |
パトリック・タンべイ | ルノー | 2Laps |
6位 |
ジャック・ラフィット | リジェ・ルノー | 2Laps |
リタイア |
アイルトン・セナ | ロータス・ルノー | 48周、電気系統 |
FL |
アラン・プロスト | マクラーレン・TAGポルシェ | 1'36"702 |